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金環日食の楽しみ方 [雑談]
今話題の金環日食だが、もちろん私も世紀の天体ショーに参加しようと思っている。次に日本で見られるのは数百年後だとか。珍しい現象が、別に私が移動することなく向こうからやってきてくれるなんて、とても贅沢なことだ。旅費0の旅行だ。
しかし、この天体ショーを前にして、私は決めていることが1つある。それはサングラス(日食観測専用の眼鏡、日食グラス)などを使って太陽を直接みないようにする、ということ。
そう、私は太陽を見ないつもりだ。
だって、直接見たら目がつぶれちゃうわけでしょ?
かといって、日食グラスなどを使ってみたところで、その映像(?)はテレビなどを通して、詳細に、綺麗に見られるわけで。
だから私は、空の様子だとか、雲だとか、周囲が少し暗くなるのだろうかとか、木や草の陰であるとか、五感を使って存分に、その場の空気を楽しみたいと思っている。
ああ、認めよう。
確かに私は日食グラスを買いそびれた。
日食グラスがまったく売っていないわけじゃない。あるにはあるが、近所の店に売れ残っている、ちょっと割高そうな日食グラスを、一瞬のために購入したくないというセコイ思いもある。けど平気だ。やせ我慢じゃない。
平安時代や縄文時代に金環日食がおこったとしたら、その時代は日食グラスなんてないわけなんだ。彼らと同じ楽しみ方をするのだ。私は。
ないなら、ないなりの楽しみ方を見つけるのだ。
楽しみは、自分でつくるものなのだ。
私はそうやって、この金環日食を楽しもうと思っている。
全然悔しくない。
タグ:金環日食
五感が不感で互換できない [雑談]
新鮮なものを新鮮だと思えなくなるのって、何だか悲しいね。
五感が不感症になっている。
必要最低限の動作で必要最低限の生活ができちゃうからね。
空が青かったり、新芽が出ていたりしても、気がつく余裕もなければ感動する必要もないからね。
もし私が宇宙人で地球侵略を狙っているとしたら、木の葉や道端の花を隠れ家にするだろうね。どうせ誰も見ちゃいないし。
五感が不感症になっている。
必要最低限の動作で必要最低限の生活ができちゃうからね。
空が青かったり、新芽が出ていたりしても、気がつく余裕もなければ感動する必要もないからね。
もし私が宇宙人で地球侵略を狙っているとしたら、木の葉や道端の花を隠れ家にするだろうね。どうせ誰も見ちゃいないし。
血縁、地縁、社縁 [これから日本の話をしよう!]
私は週の半分くらい、朝の満員電車に乗る。
あれは何なのだろう?
混むのはしょうがない。
人が多すぎると思うのだが、私もその一因(一員)だ。
降りる人の流れに抵抗し、いいポジションを確保しようと頑張る人がいる。流れに逆らったり、動かなかったり、あるいは新たに乗ってくる人に自分のテリトリーを邪魔されないように、梃子でも動かないかのように固まり、頑張りすぎる人がいる。入り口近くを陣取りたいのか、まだ詰められるのに、新たに人が乗り込んでこないように壁のように立ちはだかる人もいる。
これらの人は非常に迷惑だと思うのだが、彼らが悪人かと言うと、そういうわけではないだろう。
昔、電話ボックス(懐かしい)に何人詰め込めるかという実験があった。
リハーサルで、まずは詰め込まれる。ぎゅうぎゅう押して、入っていく。
その後休憩をはさみ、本番。
ところが、リハーサルよりも入らない。
その理由は、被験者同士が知り合いになってしまって、気を遣い合うようになったところにある、というもの。
これは、ありそうな話だ。
遠慮なく人を押し込めるのも、他の人が入れないように立ちはだかるのも、自分のテリトリーを確保すべく意地悪するのも、相手が見ず知らずで、恐らく今後も知り合う可能性が低いからに他ならないから、だと思う。
私は、その感覚が、至る所に蔓延しているように思える。
血縁は小ロットになった。
地縁も薄れている。
社縁だって、壊れかけているじゃないか。
縁が薄れれば、エンリョもなくなる。
日本的な村社会のシステムというのは、嫌なイメージがある。重苦しくて、陰湿で、息苦しいイメージだ。しかし、本当に、そんなに悪いものだろうか?
確かにべったりとした、村社会システムは、私も嫌だ。しかし、そこに含まれていた相互扶助の仕組みは、実はとても大切で、うまく機能する部分もあった。
村八分という消極的制裁がある。子どもっぽくいえば、“絶交”だ。
この言葉には、嫌なイメージしかない。
しかし、なぜ八分なのか、なぜ十分(全部)ではないのか、考えたことはあるだろうか?
村八分とは、10ある交際のうち、2つだけを残してのけ者にするというものだ。
では、残された2つとは何か。
葬式と、火災の消火活動だ。この2つには実用的・必要性があるのだが、それにしても全てをのけられるわけではない。
だからどうしたと言われればそれまでだが、今、この私達の社会の進歩した部分を合わせて再設計すれば、村社会システムはもっと良くなるのではないかと、私は思う。そう、“改良版”村社会システムだ。
宗教的な寄る辺のない日本人にとって、“改良版”村社会システムは必要不可欠だと思う。
ネット上で、この村社会システムが機能し始めている場所もあるように感じる。しかし、私はそれが良いとは思えない。ネットを活用するにしても、そこでバーチャルな関係ではなく、実社会上の血縁、地縁、社縁が必要だと考える。
血縁、地縁、社縁・・・そう考えると、こう主張している私ですら、「何だかめんどくせーなー」と思ってしまう。
困ったものだ。
つらつらつら・・・。
自由と無責任は違う。だけど、往々にして混交している。
悪貨が良貨を駆逐する時代に思えてならない。
あれは何なのだろう?
混むのはしょうがない。
人が多すぎると思うのだが、私もその一因(一員)だ。
降りる人の流れに抵抗し、いいポジションを確保しようと頑張る人がいる。流れに逆らったり、動かなかったり、あるいは新たに乗ってくる人に自分のテリトリーを邪魔されないように、梃子でも動かないかのように固まり、頑張りすぎる人がいる。入り口近くを陣取りたいのか、まだ詰められるのに、新たに人が乗り込んでこないように壁のように立ちはだかる人もいる。
これらの人は非常に迷惑だと思うのだが、彼らが悪人かと言うと、そういうわけではないだろう。
昔、電話ボックス(懐かしい)に何人詰め込めるかという実験があった。
リハーサルで、まずは詰め込まれる。ぎゅうぎゅう押して、入っていく。
その後休憩をはさみ、本番。
ところが、リハーサルよりも入らない。
その理由は、被験者同士が知り合いになってしまって、気を遣い合うようになったところにある、というもの。
これは、ありそうな話だ。
遠慮なく人を押し込めるのも、他の人が入れないように立ちはだかるのも、自分のテリトリーを確保すべく意地悪するのも、相手が見ず知らずで、恐らく今後も知り合う可能性が低いからに他ならないから、だと思う。
私は、その感覚が、至る所に蔓延しているように思える。
血縁は小ロットになった。
地縁も薄れている。
社縁だって、壊れかけているじゃないか。
縁が薄れれば、エンリョもなくなる。
日本的な村社会のシステムというのは、嫌なイメージがある。重苦しくて、陰湿で、息苦しいイメージだ。しかし、本当に、そんなに悪いものだろうか?
確かにべったりとした、村社会システムは、私も嫌だ。しかし、そこに含まれていた相互扶助の仕組みは、実はとても大切で、うまく機能する部分もあった。
村八分という消極的制裁がある。子どもっぽくいえば、“絶交”だ。
この言葉には、嫌なイメージしかない。
しかし、なぜ八分なのか、なぜ十分(全部)ではないのか、考えたことはあるだろうか?
村八分とは、10ある交際のうち、2つだけを残してのけ者にするというものだ。
では、残された2つとは何か。
葬式と、火災の消火活動だ。この2つには実用的・必要性があるのだが、それにしても全てをのけられるわけではない。
だからどうしたと言われればそれまでだが、今、この私達の社会の進歩した部分を合わせて再設計すれば、村社会システムはもっと良くなるのではないかと、私は思う。そう、“改良版”村社会システムだ。
宗教的な寄る辺のない日本人にとって、“改良版”村社会システムは必要不可欠だと思う。
ネット上で、この村社会システムが機能し始めている場所もあるように感じる。しかし、私はそれが良いとは思えない。ネットを活用するにしても、そこでバーチャルな関係ではなく、実社会上の血縁、地縁、社縁が必要だと考える。
血縁、地縁、社縁・・・そう考えると、こう主張している私ですら、「何だかめんどくせーなー」と思ってしまう。
困ったものだ。
つらつらつら・・・。
自由と無責任は違う。だけど、往々にして混交している。
悪貨が良貨を駆逐する時代に思えてならない。
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